御祭神と由緒

このページでは、当社にお祀りされている神様(御祭神)と神社鎮座のいわれ(由緒)について解説しています。

御祭神

宇賀御靈神うがのみたまのかみ
宇賀御靈神の神名である「ウガ」は「ウケ(食)」と通じ、食物や商工業の神様として尊崇を集めております。また、『古事記』では須佐之男命と神大市比賣命の御子とされています。

須佐之男命すさのおのみこと
須佐之男命は、伊奘諾大神いざなぎのおおかみの子で、天照大神あまてらすおおかみ月讀命つくよみのみことと共に三貴神の一柱です。「スサノオ」とは「荒ぶる男」という意味で、農耕や病災除の神として信仰されています。

神大市比賣命かむおおいちひめのみこと
神大市比賣命は大山津見神おおやまづみのかみの娘であり、『古事記』では須佐之男命と結婚し、大年神おおとしがみ宇賀御靈神うがのみたまのかみを産みました。二神とも穀物と関わりの深い神であることから五穀豊穣の神、また神名に「大市」とあることから商業の神として崇敬されています。

当社では上記の三柱の神々を以て稲荷大神と総称し、五穀豊穣・商売繁盛・開運厄除の大神として崇敬されております。

鎮座由緒

茶屋町一帯の干拓

当社が鎮座する倉敷市茶屋町一帯は、もともと海域で「吉備きび穴海あなうみ」と呼ばれており、近世に入り徐々に干拓されたという歴史があります。当地の干拓事業は、宝永元(1704)年に早島知行所三代目領主の戸川安貞とがわやすさだ公と帯江知行所二代目領主の戸川安広とがわやすひろ公の共同事業として開始されました。宝永4(1707)年、一連の干拓が完成すると「境川さかいがわ」と呼ばれる川より北側を早島沖新田村はやしまおきしんでんむら(早沖=現在の茶屋町早沖)、南側を帯江沖新田村おびえおきしんでんむら(帯沖=現在の茶屋町)としました。

稲荷大明神の勧請

帯江沖新田村の開村後、氏神勧請の議論が起きた際、領主戸川公より現在の神社鎮座地が寄進されました。その氏神には、早島村城山正一位稲荷大明神(現在の都窪郡早島町・早島公園に鎮座する城山稲荷神社)の御分霊が勧請かんじょうされました。

その勧請時期は不明ですが、早島沖新田村の住吉神社の創建が宝永6(1709)年とされておりますので、これに近い時期に創建されたものと推測されます。現在も稲荷神社参道の鳥居には「正一位稲荷大明神」と書かれた額が残っており、この揮毫は領主の戸川公のものであると伝わっております。

※「勧請かんじょう」とは、離れた神社に祀られている神様の御分霊をお迎えし、新たにお祀りすることです。

本殿造営と鎮座

神社の記録によれば、享保18(1733)年6月に本殿が完成しました。造営の際は、村内在住の大工のみでは人手が足らず、当時有名であった塩飽諸島の本島から大工を招き造営に当たったと伝わっております。この本殿造営に際して奉製された棟札むなふだは現存しており、そこには、国が穏やかに治まり、氏子が繁栄することを願い「國家靜謐 氏子繁栄こっかせいひつ うじこはんえい」と記されています。

そして、本殿造営の翌年である享保19(1734)年6月、京都の稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)から、その御分霊を改めて勧請しました。なぜ、改めて御祭神を勧請したのか理由は不明ですが、当社では、これを以て稲荷神社鎮座の年としております。その後の安永3(1774)年、本殿を境内東南に移築し、旧本殿跡地に再び本殿を造営しました。東南に移築された旧本殿は、摂社・荒神社の社殿として現在に至っております。

神仏分離と近代

江戸時代は僧侶が祭祀を行っていましたが、明治5(1872)年の「神仏判然令(神仏分離令)」に伴い、その名称を「稲荷宮」から現社名である「稲荷神社」に改称し、社格は「村社」とされました。現在もその名残として、随神門ずいじんもんに掲げられている神額は「稲荷宮」と書かれています。大正時代に入ると、例祭・祈年祭・新嘗祭の三大祭に際して地方公共団体から神饌幣帛料を供進される「神社神饌幣帛料供進神社」に指定されました(現在は制度自体が廃止)。

令和16(2034)年には御鎮座三百年という記念すべき年を迎えます。

参考文献
『都窪郡誌』(大正12年)
『茶屋町史』(昭和39年)
『岡山県神社誌』(昭和56年)
『改定 茶屋町史』(平成元年)

摂社せっしゃ末社まっしゃ

摂社・荒神社こうじんじゃ

御祭神 建速須佐之男命たけはやすさのおのみこと迦具土神かぐつちのかみ
例祭日 9月1日
御神徳 除災招福・防火守護

末社・秋葉神社あきばじんじゃ

御祭神 火之迦具土神ひのかぐつちのかみ味耟高彦根命あじすきたかひこねのみこと
例祭日 12月16日
御神徳 雷火難除・農耕守護

末社・祇園神社ぎおんじんじゃ

御祭神 須佐之男命すさのおのみこと
例祭日 7月17日
御神徳 無病息災

末社・龍神社りゅうじんじゃ

御祭神 綿津見神わたつみのかみ
例祭日 6月1日 
御神徳 祈晴祈雨

末社・吉備津神社きびつじんじゃ

御祭神 大吉備津彦命おおきびつひこのみこと
例祭日 10月19日
御神徳 健康長寿

末社・木野山神社きのやまじんじゃ

御祭神 大山祇神おおやまつみのかみ大己貴命 おおなむちのみこと
例祭日 9月16日
御神徳 産業守護・病気平癒

末社・沖神社おきじんじゃ

御祭神 大氣津比賣神おおげつひめのかみ
例祭日 2月17日
御神徳 五穀豊穣

倉敷市茶屋町の伝統民俗文化・茶屋町の鬼

「茶屋町の鬼」の起源は、吉備津神社の温羅うら伝説に遡ると言われています。「温羅」は鬼と伝えられていますが、早島町早島鎮座の鶴崎神社では御祭神である大吉備津彦命を守る随神とされています。茶屋町の干拓に際して、早島や帯江といった近隣地区から多くの人が入植したため、鶴崎神社のまつりの風習が茶屋町に持ち込まれたたものと伝えられています。

かつての稲荷神社(倉敷市茶屋町)・住吉神社(倉敷市茶屋町早沖)の神幸では、神輿行列の随行として鬼が登場し、鬼が子供たちを追いかけ回すのが風物詩とされていました。この起源は、江戸時代後期である寛政年間(1790年ごろ)からではないかと考えらます。しかし、昭和30年代に入ると諸事情により、鬼は徐々に姿を消していきました。

そのような状況下でしたが、「茶屋町の民俗文化を守ろう」と、昭和50年に入ると町民有志の熱意により「茶屋町の鬼保存会」が結成されました。

現在では「茶屋町の鬼保存会」「茶屋町鬼太鼓保存会」により、当社の春秋の大祭では宵宮の神賑行事として境内で「鬼ばやし」「鬼太鼓」の奉納演奏が行われ、10月に行われる神幸祭では、茶屋町の鬼が神輿の行列に加わり、祭を盛り上げてくれます。

参考文献
『伝統民俗文化 茶屋町の鬼』(平成26年)
『再改定版 親と子の茶屋町史』(平成28年)

PAGE TOP